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「エマ・ブライトニングは、神羅製作所科学部門の初代部長です」 専用のデスクに座り、液晶モニターから目を離すことなく、シェルクがいつも通りの口調で淡々と答える。 その脇には、ヴィンセントの筆跡がびっしりと並んだ茶封筒と数枚の紙があった。 「彼女は脳医学と行動心理学の権威でした。 センシティヴ・ネット・ダイブも彼女が提唱した記憶の情報化理論の応用です。主に――」 「ゴメン、もういいや。頭痛くなりそー……」 事務椅子に跨り、シェルクの横につけたユフィが顔をしかめる。 知り合いに科学者が多いユフィだが、こういった話をされると弱ってしまう。 もう少し分かりやすい説明が欲しいものだが、それにはまず基礎知識がないと追いつかない。 ユフィは金の勘定は得意だが、法則を覚えたり公式を解くのは苦手だ。 「お姉ちゃんなら、もう少し分かりやすく教え――」 「マジで?!ちょっ……シャルアー!」 言い終わらないうちにユフィが椅子から跳ね上がって、廊下に消えた。 次に向かったのは、シャルアの研究室だった。 だが、肝心の持ち主がいない。仕方なくユフィはシャルアがいそうな場所を片っ端から当たることにした。 そして周りに周って5箇所目。WROの局長室にシャルアはいた。 「ん、どうしたユフィ?」 「シャルア、エマ・ブライトニングって人知ってるでしょ、教えて!」 「何だ、藪から棒に」 「いいから!あ、でもなるべく分かりやすくね」 エスプレッソを飲んでいたリーブも、その様子にきょとんとしている。 だが、しばらくするとケット・シーの方がマグカップを取り出してコーヒーを作り始めた。 そして、それを応接セットの上に器用に置く。 ユフィは礼の代わりにケット・シーの頭を撫でて、シャルアに改めて向き合った。 「実はね――」 先ほどの封筒と紙を机の上にばら撒く。 シャルアが訝しげにそれを片目で眺める。リーブも身を乗り出して背後から内容を読んでいるようだ。 「……ヴィンセントの字、ですね」 「アイツが写したんだから当たり前でしょ!」 「で、ユフィ。この”先輩”というのは誰だ?」 「だーかーらー!!」 まさに点と線。 ユフィはエマ・ブライトニングを知らない。 シャルアとリーブはクリスティーナ・ウェスンを知らない。 重要な事柄のそれぞれを繋ぐ線が出来上がっていないのだ。 簡単にだが、今までの経緯とクリスという人物について、知っている限りの事を説明する。 「――っていうワケ。わかった?!」 「ああ。なるほどな。でも、まさかエマ・ブライトニングが……」 「どんな人だったの?エマって人は」 封筒が再び机の上に音を立てて広げられる。 そしてコーヒーを一口含み、シャルアがゆっくりと話し始めた。 「エマ・ブライトニングが脳医学と行動心理学の権威だった事をシェルクから聞いたと言っていたな」 「うん。記憶の情報化理論がどうのこうのって……」 そうかと軽く返し、彼女は続けた。 「人の感覚は電気信号みたいなものだ。それが脳に伝わって、必要なものは記憶になる。 その電気信号を解析して独自の暗号に置き換える、それが記憶の情報化理論――通称エマ理論だ。 これを応用すれば、記憶をハードディスクに書き込んでそこにもう一つの人格を作り出したり、 シェルクのように他人の記憶に入り込むことが出来るというわけだ」 いまいちピンと来なかったが、シェルクならこれをもっと難しく説明していたのだろう。 「へぇー、記憶をそっくりそのまま別の場所に持ち運びできるんだー」 「SNDはともかく、人格複製への実用化は不可能とされていたんだが、この間非公式に2件見つかった。 お前も覚えてるだろう。オメガ騒動の時だ」 そう言われてみればと、ヴァイスの姿を思い出した。 なるほど、人格の複製とはああいうことなのかと納得する。 「そんなエライ人が何で麻薬なんか作ったんだろ?」 「さあな。だが、仮に35年前エマ・ブライトニングが女王蜂だったとしても、今はどうだか分からないな」 「へ?」 「科学部門統括に就任したときのエマは既に50代だったはずだ。単純に計算しても90歳近くになる」 「でもさ、宝条みたいに誰か乗っ取ってるかもしれないじゃん」 「可能性は否定できない。だが、人格レベルまで記憶を複製するのには時間とコストが膨大に掛かるんだ。 さらに相手の体にも相当な負担を掛けるから、普通の人間なら負担に耐えられずに――死んでしまう。 だから人格複製は不可能とされていたんだ」 だが、その原則がオメガ騒動の時に根底から崩れた。 そのため科学界ではエマ理論の研究が再び盛んになり、独自の研究枠まで設ける機関も出てきた。 研修生のケイト・ホワイトもその一人である。 「そうだな、人格はパソコンのOSみたいなものだ」 「OSって、窓とかリンゴとかのことでしょ」 「ああ。それを別のパソコン――要は別の人間にインストールする。 これが人格複製の手順だが、人間はパソコンじゃあない。実際には多くの問題が存在する。 コストと時間、それに複製に耐えられるだけの強度を持つ人間。全ての条件を揃えるだけでも運がよくて20年位掛かるだろう。 仮に一回複製に成功しても、次の機会を得る前に寿命が来て死んでしまう可能性のほうが高いな」 「じゃあ女王蜂が世代交代してるって考えたほうが普通ってこと?」 「だろうな。だが、少なくともエマ・ブライトニングの側近だった人間が女王蜂をしているだろう。 エマの身辺を洗えば候補が出てくるはずだ」 そこまで話して再びシャルアがコーヒーを一口含んだ。 中が少なくなっているのを目敏く確認したケット・シーが、ポットを持ってきてそれに注ぎ足す。 まるで茶運び人形だと、ユフィは故郷のからくり人形を思い出した。 「なんかよくわかんないけど、とにかくありがと!」 温くなったコーヒーを一気に飲み込み、ユフィが席を立った。 |